魯山人の「梅にうぐいす」

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梅の季節。
私が現在住む場所はかなりの街中ではあるけれど、梅の花(お店じゃなくて)をあちこちで見ることができる。

寒い風が吹き付ける中、かわいいお花がぽんっと咲く姿を見れば、「今年も春が来たんだなぁ」と嬉しくなる。

そこで思い出すのは北大路魯山人の「梅にうぐいす」

※ちなみにイラストや写真選びで、梅と桜、うぐいすとメジロが混在しているケースをよく見かけます。
こちら、梅とうぐいすでございます。

ある日、料理の「材料と取り合わせ」の話をしていた魯山人のもとへ、ひとりの女性歌人が訪れた。
その女性は、材料の取り合わせについて魯山人に尋ねる。
そこで魯山人は、歌のたとえを持ち出した。
「うぐいすの歌を作るなら、何を取り合わせますか」
そう問われた女性歌人は、「梅とうぐいすの組み合わせは、歌では使われすぎて陳腐になっています」と答える。
以下は、そのやりとりの続きである。

「梅にうぐいすということは、言葉の語呂のよさでもなく、絵描きの都合上そうなったのでもない。やはり、うぐいす自身の自由な意志で、梅の木に止まるのですよ。それを見た絵描きが、いつもうぐいすが梅に止まるので梅にうぐいすを描いた。他の絵描きも描いた。年々このようにして梅にうぐいすが描き継がれてきた。歌人もこの事実を歌った。そして、幾春秋、梅にうぐいすは一つの真実の美から、概念の美になってしまった。あなたは新しいものを歌おうとされる。だが昭和のモダーンうぐいすもやはり梅の木に止まる。あなたが概念に囚われて机上で歌を作ろうとするから陳腐なのであって、あなた自身の目でこれを見て、感じて、歌われれば、決してそれは古くはないはずです。どうです?
(〜中略〜)
うぐいすは梅を好む。好むところに調和がある。すきやきの後では茶漬けが食いたい。洋食の前にスープを飲めば食欲が出てご馳走がおいしい。すべて、好むところに調和がある。自分で食べてみればよくわかる。虎の掛け物に、置き物は竜を置いたり、うなぎの蒲焼きと一緒にはもの照り焼きを出してみたり……すべて調和か統一かが大切だ。そして、季節のいちばん感じられるものがいいとわたしは思う。色の配合も、調和か統一だと思う。そうかといって、今までのやり古された真似ばかりでは困る。真実を少しも見ず、聞かれて返事のできないようなことはやらぬ方がよいと思う」

これは単に、定番化しているものにより目を向けよとか、尊重せよとか、そういう話ではないと思う。
私が重要だと感じたのは、「すべて、好むところに調和がある。」という一文。

自分の五感を実際に使って感じて、その感覚を大切にすれば、おのずとどうしたらいいのかという答えが自然とわかるという話なのだと思った。

そして、目指すべくは調和

これは料理や歌のことだけでなく、生き方や考え方、デザイン、何にでも通ずるものだと私は考えている。

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